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  • 刹那

綺麗な言葉には棘がある(違和感満載の言葉)

更新日:6月18日


仕事の会議の中で、違和感を持つ言葉が交わされていたのである。

「あれ?何か聞きづらい。汚い!」と感じる言葉ってありますよね。


耳障りな言葉


お客様向けへの提案資料(システム設計)のレビューでの会話である。

  • A氏「その問題が発生する確率は低く、性能をアップするのは効率的ではない」

  • B氏「何かあったら影響が大きいので、リスク対策として準備をするべき」

  • A氏「C君の設計実績を信じるべきだろう」

  • B氏「根拠が薄くユーザは、納得しないと思う」

  • A氏「C君はベテラン設計者だ、リスク対策は良いが”無駄骨”になることは避けたい」

実は「無駄骨に終わる」ことは良いこと

無駄骨」に終わることは良いことなのである。


「無駄骨」って悪いイメージに取られがちですが、実は無駄骨に終わることは良いことだと、私は思っている。


何かを実行するときは、いろいろな問題が発生するケースを考慮します。

それをリスクヘッジと言いますが、リスクヘッジをせずに万が一問題が起これば、ものすごい影響がでてしまうのが一般的である。

少なくとも万が一の時は○○が必要だ、という考えや準備などのリスク対策は必要である。


そのリスク対策が発動せずに終わったのであれば、結果的に「考えすぎでしたね、無駄骨に終わってよかった、よかった」というのが、正しい日本語ではないかと・・。


A氏の発言は、無駄骨になることが良くないという、価値観を持っているのである。

上記の例では、C君の設計で進めるとしても、無駄骨になっても良いから再設計を行うことを考慮し、リスケの準備や再設計を行うリソースの準備は必要なのである。


実は悪い言葉「信じる」

それは「信じるべき」と、客観的な根拠もなく人を信じることである。LIAR GAMEというコミックで私も勉強させられたのだ。

一般的に「信じる」というのは、心地よい言葉で高尚なことであるが、通常の会話ではほとんどが高尚な意味では使用はしていない。

正しくは、信じているのではなく、考えることを止めて知能を停止したときに出てくる言葉だ。


そして知能を停止してしまえば、やがて「無関心」になる。そして無関心こそが人間の中では最大の悪と言われる。


逆に「疑う」という言葉は悪いイメージがあるが、疑う行為は相手を知ろうとする行為なのである。


相手を知るために疑問に思い考えるのだ。

だから人間はもっと疑うべきなのである。


子供が意味もなく、いきなり「10万円貸して」と言ってきたら、「わかった」という親はいないだろう。


疑うというよりは、何かのトラブルに巻き込まれたのかも?、という思いで「なぜ?何に使うの?」となるのだ。


他の例では、後輩がお客様向けの資料を見てほしいとなった場合、さらっと目を通して「良い」と終わらせるのではなく、たとえ良い出来であったとしても、コミュニケーションを取るべきである。


会議室に移動し「問題も無くよくできているが、お客様から○○と言ってきたら?」と言うように後輩が何を考えているのか確認したり、お客様との問答を想定したリハーサルをした方が、はるかに良い結果になるのである。


私の場合は内容はもちろんですが、絵の構成や色などのビジュアル的な面も口を出してしまっている・・・。


本筋とは違うかもしれないが、見た目でも勝負しているのだ(だって見た目が綺麗で理解しやすいと、沢山説明しなくても済むんだもん)。


話を戻して、「信じている」は信じているのではなく、面倒なので考えることを止めてしまった。さらに悪く言えば「無関心」になっているのである。


表現こそ美しくないかもしれないが、人間は疑うからこそ相手を知ろうとしているのである。


「信じる」と「疑う」は表向きのイメージとは逆の真実が隠されているのである。


会議の話に戻して・・

会議室の会話ではAさんは悲しい人間ですね。


何か問題があれば間違いなく、C君の設計に問題があったと言うだろう。


真実はC君の設計が問題ではなく、”C君の設計で良しと判断した”のが問題なのである。

 

私は常日頃から娘に伝えている。

目に見える事実”よりも、”目に見えない真実”が最も重要な力である。常に見えない真実を追うようになって欲しい。

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